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持続不可能都市への鎮魂歌

Prologue
Funeral of Blue
−青き魂の葬送−

 人類はコモンセンスを獲得するのに多くの犠牲を払いながら、それでも一歩ずつ前進し、勝ち取ってきた。20世紀に入り、都市が爆発的に発展すると深刻な都市問題が発生した。未曾有の公害問題、自然破壊は人類の未来に暗い影としてのしかかった。だが、人類は暗くのしかかる公害に対して闘い、一歩ずつコモンセンスを勝ち取ってきたのだ。人類が獲得したコモンセンス、それは都市の公害のような深刻な環境破壊は不可逆的な被害をもたらす。故に環境破壊は起きる前に止めなければならない。自然の限界、人知の限界を知り、環境をそして人類を持続させなければならない。人類は、自らの存亡に脅威を与える環境問題との闘いの歴史の中で、持続可能性という一つのコモンセンスを見いだしたのである。だが、コモンセンスはもろい。人々がコモンセンスを常に維持する努力を払わなければコモンセンスは脆くも崩れ去る。コモンセンスが崩れるのはほんの些細なきっかけだ。維持するために必要なのはただ一つ。人々が常に今の事だけではなく、常に未来を見つめる。過去にコモンセンスの為に戦ってきた人のことを忘れない。これを続ければコモンセンスは持続する。だが、一度未来を忘れ、過去を忘れた瞬間にコモンセンスは崩れ去る。そして、立て直すには膨大な時間と手間がかかる。崩れ去ったコモンセンスの前には空虚な未来が立ちはだかるだけである。

 20世紀後半、自動車の爆発的な普及は人類に史上最高の移動可能性をもたらした。だが、一方で人類に危機をもたらした。交通事故、大気汚染、地球温暖化問題である。日本では自動車の大気汚染公害が多数の喘息患者を生み出し、多くの人の健康、そして命を奪った。だが、苦境に立たされた人々は立ち上がり、裁判を通じて環境規制を勝ち取った。彼らは一つのコモンセンスの元に立ち上がった−未来の世代に青い空を手渡したいと−。地球規模の温暖化問題に対しては、世界中の人々が知恵を絞った。そして一つのコモンセンス−各国共通であるが差異のある責務を負い、環境の限界を理解する。そして、地球環境を持続可能にするために先進国は温室効果ガスの排出量を削減する。しごく当たり前にことを合意するのに、膨大な時間を要した。
 そして人類はコモンセンスを守るために行動に移った。持続可能な社会を打ち出すためには都市交通の制御が肝要である。ドイツでは、自動車公害に対して公共交通の維持・強化、徒歩・自転車への強力な支援を打ち出していた。とりわけドイツではトラムを公共交通強化の柱にした。フランスやアメリカではトラムを廃止し、バスと自動車だけとなっていた。当時のフランスやアメリカは大気汚染に悩まされていた。そこで、ドイツの手法を取り入れ、公共交通復権の切り札ととしてトラムを積極的に導入し始めた。フランスのストラスブールやアメリカのポートランドはトラムの復活により本家ドイツを凌駕する効果を上げた。ここに、欧米の都市交通の世界に一つのコモンセンスが誕生したのである。そして、トラムは都市のコモンセンスとなったのである。日本にも新しいコモンセンスは伝わり、トラムを存続させていた熊本や広島の公共交通強化の後押しとなった。過度のクルマ依存を改め、青い空を守る。そのために徒歩・自転車・公共交通を守る。これは人類にとって新しいコモンセンスになった。
 だが、コモンセンスに再び危機が訪れようとしている。地球温暖化対策の世界的なコモンセンスは自国の産業界の目先の利益しか追求しない指導者によって打撃を与えられた。そして、今日本のある街でも人類が獲得したはずのコモンセンスが崩れようとしている。


Epitaph of Red
−赤き魂の墓碑銘−

 まもなく命運がつきようとしているこの町の路面電車は、クルマが現れるよりもずっと早く街に走り出した。岐阜市内に2系統の市内線をもち、それに接続する形で北西部の揖斐や谷汲へ向かう路線と、関を通り美濃へ向かう2系統の郊外路線を持つ。この路面電車を運営する会社は名古屋鉄道と言う。愛知・岐阜県一帯に路線を張り巡らせ、日本で第2位の路線距離を誇る私鉄である。この鉄道の塗装は赤一色が基本である。岐阜の路面電車やそれに接続して郊外へ向かう電車も全て赤に塗られていた。一時期は赤い電車は岐阜の街のシンボルとも言える時代を過ごしていた。
 だが、街にクルマが溢れるようになるとたちまち路面電車は身動きが取れなくなった。人々はクルマをただ追い求め、車道を広げることのみに邁進した。とりわけ警察は異常なくらい自動車が好きであった。自動車の邪魔になるものは道路上から退ける。こうして、横断歩道は撤去されて人は歩道橋を渡ることを余儀なくされる。そして、路面電車もまた自動車の邪魔と見なされた。路面電車の軌道は、電車のものである。だが、警察はこれを没収した。軌道敷きに自動車が溢れるようになった。電車は動きが取れなくなった。そして電車は自動車の運転手からも邪魔者扱いされるようになった。多くの街の路面電車はそうして去っていった。
 だが、岐阜の路面電車はそうではなかった。運営する名鉄の赤き魂は、クルマ社会と闘うことを選んだのである。名鉄は本線において他の私鉄や国鉄に先駆けて、料金不要車両に冷房を搭載した車両を導入したり、イタリアのセッテベロに範をとった画期的な展望車、パノラマカーをデビューさせるなど新進の気風を持つ鉄道会社である。おいそれと岐阜の路面電車の廃止などしなかった。名鉄は、まず路面電車用に新車を投入していった。特に、1980年からはカルダン駆動の高性能車で冷房付きの車両を逐次導入していった。1980年から2000年にかけて、合計19両(編成)もの優秀な車両が岐阜の路面電車に投入された。これは、他の都市で車両更新がおぼつかない現状を見ると、快挙と言って良い。日本の鉄道史上これだけ困難で存続が難しい鉄道路線に、路線の公共性を信じて新型車両を導入し続けた鉄道会社は名鉄をおいて他にない。名鉄の持つ赤き魂のなせるわざである。

 だが、警察の赤狩りは苛烈を極めた。まず、路面電車の軌道敷の自動車乗り入れは完全許可。これによって路面電車は必ず渋滞に巻き込まれるようになってしまった。だが、とりわけ打撃を与えたのが停留所である。普通、路面電車の停留所は道路から一段高くした安全地帯(島)を設置している。これは電車のステップに登りやすくするためと、車道と停留所を分離する役割があるからである。警察は停留所の安全地帯の設置を認めなかった。停留所は道路に緑色でペイントしただけの存在である。これでは乗客は怖くて停留所で待てない。危なくなった市内線の電車から徐々に客が引き始めた。車両導入で起死回生を図ろうとするも、赤き魂は外堀を埋められた状態で闘わざるを得なかった。さらに行政当局も路面電車に冷淡だった。当時の岐阜市も、路面電車は渋滞の原因と考えており、撤去を求めていた。まさに四面楚歌の赤き魂であった。
 赤き魂が最初に敗北したのが1988年のことである。岐阜都心の徹明町から北に延びる市内本線は岐阜の中心街のメインストリートを通る路線である。この路線が廃止されてしまったのである。この年に開かれたぎふ未来博覧会(−おそらく後世の人間はこの博覧会を「未来」とは呼ばないであろう)の会場アクセスの渋滞が予測されるために、行政当局は線路を剥ぎ取ってしまったのである。博覧会開催時には普通、公共交通を延伸して客を運ぶものだが、岐阜にはこのコモンセンスはなかったのである。都心を通る路線を奪われた路面電車はさらに客を減らし始める。1999年3月、美濃町線の新関−美濃間が廃止された。ただし、この時はこの区間に平行する長良川鉄道が存在したために、関市内に新線を建設し、長良川鉄道との結節を強化した。廃止と言っても、人口閑散地域の並行路線を統合しただけであり、結節強化していることからこれは妥当な措置だろう。
 だが、この策もむなしく衰退は訪れる。年々乗降客は減少していった。市内線だけ走る列車は原則廃止となり、郊外線からの直通列車のみが市内線を走るようになっていまった。あまりの乗客減から、岐阜市民の一部からは路面電車不要論すら出てきたくらいである。何よりも、名鉄本線の力が落ち始めたのである。まずJR東海との競合が激しくなった上に、1990年代以降にさらに深化したモータリゼーションの影響を受け、名鉄自体の収益が悪化したのである。これまでは、本線の収入で岐阜の路面電車を支えていたが、収入源はとうとうそれを支え切れなくなったのである。2001年には、岐阜市内線と繋がる谷汲線、揖斐線の末端部が廃止された。そして、2003年、名鉄は周辺自治体に岐阜の路面電車全線廃止を通告した。ここに赤き魂は力尽きた。

 赤き魂よ。君はもう十分に闘った。君のとった手はすべて上手かった訳じゃない。だけれども、僕は君を忘れない。君は僕たちにかけがえのない教訓を与えてくれた。どうか安らかに眠り賜へ。


Requiem to White
−白き魂への鎮魂歌−

 行政に携わる者、そして学問を修める者はコモンセンスを守り、市民にそれを伝えていかねばならない。市民というのは専門家ではない。市民は専門知識を持たず誤謬をすることが多い。だからといって、それを責めてはいけない。専門家とて、自分の専門以外では無知なのだ。人の上に立つ者、そして知識を治めるものが正しい知識を市民に伝える、そうすることによって初めてコモンセンスが成り立つ。人々が「常識」と思っていることで、本当は間違っていることは多い。学問の上では間違いが定説になっていても、それが一般の人に伝わらなければコモンセンスは成り立たない。
 「自動車が増えれば渋滞が起きる」これは万国どの国の交通学者も認めている理論である。だが、一般人はそう思っていないことが多い。「道路が狭いから渋滞する」と思っているのである。道路が狭いから渋滞するのではない。狭い道路を通る車が増えるから渋滞するのである。「道路が広がれば渋滞がなくなる」というのも、実は理論上は否定されている。道路が広くなればそれまで自動車を使わなかった(道路容量不足で道路からはじき出されていた)人々が道路を使うようになるのだ。もちろん、道路増加分で増えた需要を裁けるなら問題はない。だが、高密度な都市の場合は交通流が面的に広がっており、道路一本だけ広くしても地域全体の自動車需要を刺激してしまい、根本的に問題は解決しない。

 その点、公共交通は狭いスペースで大量の乗客をさばける。とりわけトラムはメリットが大きい。まず、安価で簡便な設備に対して高い輸送力を持っている。また運行の安全性や安定性も抜群である。路面から乗れるので乗客は乗降しやすい。無公害で環境保護の観点からも優れている。非常にメリットが多い反面、路面を占有するために自動車交通や他の都市政策との連動が不可欠である。つまり、トラム導入は都市交通、都市政策の根本に関わってくる問題なのだ。だからこそ、トラムは世界の都市交通のコモンセンスと言って良い。行政と市民の間でコモンセンスを共有しないとトラムは敷けない。
 同じ公共交通でも、バスはどうか?岐阜の公共交通はバスが主役である。現在、岐阜のバスはバスだけで渋滞を起こしている。世界のどこの都市も経験したことだ。そこで、バスよりも輸送力の高いトラムに代替した。これによってバスの渋滞をなくしたのである。確かに岐阜では路面電車の乗客は少ない。だが、それは行政と警察が路面電車に乗せないように工夫した結果である。路面電車に乗る人間は、乗降時の安全すら確保されない。路面電車の乗客の人権すら尊重しない街で、コモンセンスが成り立つはずがない。

 存続には財源負担の問題が大きく横たわっていた。赤字の路面電車だから、市が援助してもおぼつかないと。だが、行政の役割は民間では採算割れしてできないが、公共性の高い事業を行うことである。量出制入−出るを量って入るを制す−これは財政の原則である。まず必要な事業を決め、それに必要な予算を決定する。そして税額を決定して集める。公共事業は事業の収益性で決まるのではない。全ては事業の必要性と公共性で判断することなのだ。財政学という学問が説く量出制入というコモンセンス、これを忘れた時人々は判断を誤ってしまう。
 これまでも岐阜の路面電車は赤字であった。その赤字を負担していたのは名古屋鉄道という民間企業である。元はと言えば、名鉄本線の乗客が支払った運賃である。これまで岐阜の路面電車の運営費は、岐阜に直接関係のない路線の利用者が負担していたのである。名鉄にとっても、この負担がなければ他の利用者の運賃を下げることができた。名鉄は自動車やJR東海との競争を考えれば、十分すぎる機会費用を負担している。赤字を厭う岐阜市民の気持ち自体はおかしな事ではない。だが、これまで誰が赤字を負担してきたかということを無視して赤字を厭うのは人間として本当に誇りある行為か。常識のある人間ならば赤字故に存続を拒絶する以前に、今までの名鉄とその利用者の負担に感謝しているであろう。人に痛みを負わせて自分の番になって拒絶するような街にはコモンセンスはない。

 正しいコモンセンスがなければ誰も公共性の意味を理解することは出来ない。確かに、クルマの利用者がこれだけ増えれば、クルマの利便性を高めることに公共性はある。だが、電車の乗客の安全を守ることに公共性はないのか?大気汚染から市民の健康を守ることに公共性はないのか?バスに乗る客を守ることに公共性はあっても、電車の客を守る事には公共性はないのか?確かに路面電車の乗客は少ない。だが、行政に出された存続署名は14万を越えた。一方で存続反対の署名は600人に過ぎない。14万人の声を無視して、600人の声が反映されるのである。行政はこの14万人の声に真摯に耳を傾けたのか。600人の声しか集められなかった反対派は14万人の声をどう受け止めるのか。
 世界中探してみても、単に路面電車を廃止した後に都市交通問題が好転したケースはない。路面電車を完全に地下鉄に置き換えたり、バスシステムを徹底的に改善した場合はもちろん成功している。だが、地下鉄建設にしろ、バスの徹底強化にしろ、路面電車存続と同等以上の手間はかかる。バスの強化ではバスレーンの導入が不可欠であった。すなわちバスで成功した街は、路面電車と同じ道路面積をバスに占有させて初めて成功したのである。しかもバスはディーゼルエンジンを使うので環境面ではあまり良くない。天然ガス車も登場しているが、大気汚染対策には電気駆動が一番というのが世界の常識となりつつある。日本で過ぎ去ったトロリーバスも世界ではどんどん復活している。そしてもちろんトラムもどんどん登場している。

 残念ながら、行政にも反対派にも路面電車廃止後の都市交通ビジョンがあるわけではない。すでに、世界の常識からして、廃止後の交通再編計画なしに廃線を決めることなどあり得ないはずだった。クルマがもたらした問題はあまりにも多い。大気汚染をどうするのか?二酸化炭素はどうやって減らすのか?渋滞はどうするのか?市街地の空洞化にはどうやって対応するのか? 世界の街は、路面電車がそれに有効であると知っていた。だからこそ日本より行政に厳しい欧米の市民が、税金を使ってまで路面電車を走らせているのである。行政は世界のコモンセンスを市民に伝えることが最後まで出来なかった。そして、市民もまた世界とコモンセンスを共有することは出来なかった。

 最も有効な手段を切り捨てた今、困難な壁が立ちふさがる。
 市役所には大気汚染で薄汚れた環境都市宣言の旗がはためく。
 街に課題だけを残して、都市交通のコモンセンスは去って行く。


Epilogue
-Expiate their Sin-

 1962年のある日、フランスのある街でトラムが廃止された。その街は当時渋滞で都市機能が麻痺し、時代遅れのトラムを撤去し、近代的なバスに置き換えたという。その後、その街はひどい大気汚染に見舞われた。急激なモータリゼーションは都心の大渋滞、郊外社会化を促し、都心は衰退した。トラムが撤去されても、状況が良くなるどころか、さらに悪化したのである。それでも、この街の住人はトラムの撤去は正しかったと信じていた。そして、誰も再びトラムを導入することなど望まなかったのである。一部の人を除けば・・・・。
 30年たったその日、その街は激しい熱気に包まれていた。連日、本当に毎晩、市民と行政との協議会が開かれ、徹底的に激論を交わしていた。市当局と市民の意見は真っ向から対立しており、市民の大半が市の政策に反対していた。だが、当時の市長、政策担当者は自分たちの政策が正しいと確信していた。市長は他の都市の成功例を見ていたのである。彼女は成功した他の都市の政策に関わった担当者を引き抜き、第1線に据えていた。だからこそ、市民と徹底的に協議して、正しい知識を伝えようと努力していたのである。市民と行政の協議は合計500回に及んだという。この結果、反対派の8割は賛成に転じたという。
 この街で市民と行政が激論を交わしていたことは、トラムの復活であった。市民の多くは、クルマが街に入って来なくなると街が衰退すると信じていた。トラムは時代遅れで不便な乗り物であると信じていたのである。行政当局は、市民に正しい知識を伝えるために、何度も協議を開き、徹底的に議論したのである。それはもはや単なる説得ではない。この過程で市民と行政の間で正しい知識を共有することが出来たのである。
 ストラスブール−後に世界中の人の胸に都市交通政策の鏡としてその名を刻む事になったこの街のトラム導入の成功の秘訣は、市民と行政の間にコモンセンスを築くことが出来たからに他ならない。この街は、路面電車を廃止してその後苦難が訪れた。それでも、30年経っても路面電車廃止とクルマの無制限な利用が失敗だったということを誰も気づかなかったのである。多大なる痛みを負ってなお、人々は正しい知識に気づかなかったのである。この街がたどった歴史はまるで闇の中を巡礼し続け、正しい知識を伝えようとする人間が彼らの上に立ち、最後に救済されるがごとく。

 トラムは街に2本の線路を敷く。その線路は世界中と繋がっている。都市交通政策のコモンセンスを通じて。トラムがある都市は、世界中時と場所を変えようが、同じコモンセンスを共有する事ができるのだ。
 人類の社会、一寸先は闇である。都市の未来もまた闇に覆われている。昨日まで岐阜には闇でも光を放つ二条の軌道があった。光はコモンセンスから放たれていた。明日にはこの線路はない。コモンセンスから放たれる光を反射する軌条はもう街にはない。明日からは闇の中を進まなければならない。闇の中苦難の道が始まる。もはや後戻りできない。これからも渋滞や大気汚染に悩まされ続けるだろう。それでも彼らはコモンセンスを見つけるまで、この闇の中を巡礼し続けなければならない。いつか正しい知識を伝えようとする人間が彼らの上に立つ、その時まで。

 Requiem to Anti-Sustainable City........





2004年7月執筆
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補遺

 このエッセイは、2004年7月、岐阜市長が路面電車存続への財政支援の断念表明を受けて執筆したものである。残念ながら、岐阜の路面電車は2005年4月1日に廃止されてしまった。その後岐阜の都心は、中心市街地のシンボルである岐阜パルコが閉店するなど、落ち目の印象を与え続けている。乗客は決して多くなかったとは言え、それでも中心市街地にとっては路面電車が走ることは、かろうじてバランスを保つ効果があったのだろう。後に、札幌市長と堺市長が路面電車の財政支援を決断したのは、岐阜のケースが大きな反面教師になっとしか思えないのである。